今回は世田谷ボロ市と名物の代官餅をご紹介します。
世田谷ボロ市は毎年12月15・16日と1月15・16日に世田谷中央病院から西に延びる通りで開催されるため、この区間は通称「ボロ市通り」と呼ばれて地図にも載っています。ボロ市と名付けられていますが、現在では古着の他日用品、骨董品、古道具、食品、神棚等々様々な物が売られています。
世田谷ボロ市の歴史
1578年に開始され、最初は「六斎市」
1578年に小田原城主北条氏政が掟書を発してこの地に市を開いたことがボロ市の起源です。当時世田谷は小田原と江戸を結ぶ矢倉澤往還の中間に位置した交通の要所であり、市はその振興策でした。
この市は誰もが自由に出入りできて市場銭を徴収されない楽市で、掟書には一の日と六の日の毎月六日開かれる六斎市であることが定められています。
毎年1日だけの「歳の市」へ
北条氏の滅亡後に関東を支配した徳川家康は江戸を起点とする五街道を整備しましたが、そのため矢倉澤往還にかわって東海道が交通の中心となり世田谷は衰退します。そのため世田谷の六斎市も年に1回、12月15日にだけ開かれる「歳の市」に変わっていきました。
「ボロ市」の由来
近隣の農家は1年で使用する全ての物をこの市で揃えたため、商品としては正月用品、日用品の他に農具を扱う店が多く、農具市の性格が強かったと言います。しかし明治の後半になると、大都市東京の古着屋・屑屋が集めた古着・ボロの割合が大きくなり、「ボロ市」という俗称が一般化してきました。そして戦後になって正式名称となります。
なぜ年2回開催されるようになったのか?
強引に行われた新暦への切り替え
元々は年末に1回だけ開催されていたものが明治5年に暦が太陽暦に切り替わると1月にも開催されるようになりました。
それまで使われていた暦から太陽暦への切り替えというものはかなり強引に行われたもので、「明治5年12月3日を明治6年1月1日として新暦に切り替える」という決定が発表されたのは何と明治5年11月9日です。12月が2日しかないことから、この年の市は臨時に11月25日に開催されました。
旧暦で生活する農村にも配慮して年2回開催へ
十分な検討もされず突然の変更だったため国民に定着するまで時間がかかり、農村では依然として約1ケ月遅れの旧暦で年中行事が行われていました。そのため新暦で年末にあたる12月15日は旧暦では年末にならず、「歳の市」になりません。そのため農村部の歳の市にあたる1月15日にも開かれるようになりました。
世田谷ボロ市へ行ってみた
今年は12月15・16日は両日とも平日ですが、マスコミ等でもよく取り上げられていることもあってかなり混雑していました。
ボロ市通りはそれ程広くはありませんから土日が絡んだら歩くのも大変で、商品をゆっくり見ることなどできないのではないでしょうか。
小さな人形が並んでいます。
このような道具屋さんはいくつも出店していました。
箸の専門店です。
古道具屋でしょうか。
食器屋さんです。この店では買うかどうか悩みました。
ボロ市名物として超有名な「代官餅」とは?
ボロ市には今年の1月にも行きましたが、2日目の午後だったため名物の代官餅は売り切れてしまっていました。そのため今回は何としても食べたいと思っていました。
ボロ市通りの中ほどに目印の横断幕がかかっています。
11時半の時点でこれだけの行列ができていました。(食べ終わって帰る時この倍の長さになっていました。
テントの中はてんやわんやです。
からみ(左上)きなこ(左下)あんこ(右)の3種類あります。
40分並んでついにゲットした「からみ」です。大根おろしに海苔、ネギ、鰹節をかけ、醤油で味付けしています。
ウィキペディアでは「ボリュームがかなりあるため買い過ぎに注意を要する(おとな数人で1パックが適量)」と書かれていますが、するすると喉を通るため1パックあっという間に食べてしまいました。寒風吹きすさぶ中での立ち食いのため餅が冷めてしまったのが残念です。
見るだけでなく、せっかくだから何か買いたい
このあたりで「代官屋敷」と言われている重要文化財の大場家住宅です。
1月のボロ市の際は単に見て通り抜けただけだったので、今回は何か買って帰りたいと思っていました。ウィスキーを飲む際のショットグラスとしていい物を探しましたがなかなかありません。完全に諦めていたのですが、ボロ市通りの一番端っこの店でちょうどいい物がありました。
ボヘミアのクリスタルガラスのグラスで1200円でした。トワイスアップばかりではなく、たまにはストレートでも飲んでみようと思います。